ルイ14世(太陽王)は晩年に脚の疾患を患い、1715年に亡くなりました。ここでは当時の記録をもとに、症状の経過と施された処置、当時の医療状況をやさしく解説します。史料の記述や医学的知見を照らし合わせ、当時の人々がどのように病と向き合ったかをたどっていきます。
ルイ14世の死因は脚の壊疽が中心だった

王の死因については脚の壊疽が主因と考えられています。王室の記録や医師の報告から、脚の状態が長く悪化し、最終的に全身状態の崩壊につながったと記されています。壊疽は組織が壊死して黒変する状態で、感染や血流障害が関連します。ルイ14世の場合、足の腫れや潰瘍が進行し、やがて膿が出たり悪臭を伴うようになりました。宮廷医たちは創部の処置や薬を施しましたが、衛生環境や抗菌手段がない当時では感染を抑えきれませんでした。
王の高齢や体力の低下も経過を悪化させました。記録には発熱や衰弱が続いたことが示され、これが壊疽からの全身感染や敗血症につながった可能性が高いとされます。最終的には心肺機能の低下も見られ、こうした複合的な要因が重なって亡くなったと理解されています。
当時の史料が指す直接的な原因
王室の日誌や宮廷医の報告書は、脚の腫れと潰瘍の悪化をたびたび記録しています。1715年の記録には、足の潰瘍が破れて膿や悪臭が出始めたこと、創部周辺の皮膚が黒ずみ始めたことが具体的に書かれています。これらは典型的な壊疽の描写です。
また、主治医たちが創部を切開して膿を出したり、外用薬を塗ったりしたことも史料に残っています。王の側近や外交文書にも「足の病が致命的となった」との記述が見られ、公式には脚の病が死因の中心であったと扱われました。こうした史料群が、壊疽からの全身的な悪化を示す一次資料となっています。
最期に現れた主な症状と経過
最期の数週間から数日は、体温の上昇と悪寒、強い衰弱が続いたと報告されています。足の創部からの膿と悪臭は徐々にひどくなり、傷の周囲が黒く変色し、触れた際の痛みや壊死の徴候が増えました。歩行は不可能となり、臥床が続きました。
食欲は落ち、眠れない夜が増え、尿や排便の状態も乱れたとあります。こうした全身症状は、局所感染が広がって全身炎症反応を引き起こしたことを示唆します。最終的には意識がもうろうとし、呼吸や脈拍が弱まり、1715年9月1日に崩御しました。
施された治療とその限界
宮廷医は当時としての手段を尽くしました。膿を抜くための切開、外用の軟膏や湿布、包帯、そして安静が基本でした。血を抜く瀉血(しゃけつ)や瀉下(下剤)、浣腸も行われ、体内の「悪」を抜くという医療観に基づく治療が行われました。
ただし、抗生物質は存在せず、消毒法や無菌環境も確立されていませんでした。そのため切開や包帯交換の際にさらなる感染が広がる危険もあり、薬草や鉱物由来の軟膏では深部の感染を抑えられませんでした。これらの限界が、治療効果を大きく制約しました。
現代医療から見た解釈
今日の医学で当時の経過を振り返ると、脚の壊疽は血流障害または感染性壊疽(細菌感染によるもの)のどちらか、あるいは両方が絡んだものと考えられます。壊疽から菌が血流に乗ると敗血症を引き起こし、臓器不全へ進行します。記録にある発熱、ショックに似た衰弱、意識障害は敗血症の典型的な兆候です。
もし現代の医療が利用できれば、迅速な抗生物質投与、壊死組織の外科的除去、血行を改善する治療、集中治療での支持療法により、予後は大きく変わった可能性があります。ただし高齢や慢性疾患の有無も影響しますので、必ずしも完全な回復が保証されたわけではありません。
壊疽以外に考えられる合併症
壊疽に加えて、糖代謝異常(糖尿病)や末梢動脈疾患が影響していた可能性があります。糖尿病があれば感染を起こしやすく、治癒も遅れますし、血管の動脈硬化があると足への血流が不足して壊死を招きやすくなります。
また、長期臥床による褥瘡(じょくそう)、栄養不足による免疫低下、心肺機能の低下も合併していたかもしれません。これらが重なり合うことで、治療の効果が出にくくなり死へと至ったと考えられます。
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晩年の健康と症状の経過

王は晩年、体調の波が目立ちました。若い頃の活動的な時期と比べると、歩行や持久力の低下が記録に残り、足や皮膚の不調が繰り返されました。年齢とともに免疫力や回復力が低下していったことが背景にあります。ここでは腫れや発熱、潰瘍、食欲の変化など、経過を追います。
足の腫れと皮膚の異常の始まり
記録には、最初に足や脚の腫れが見られた時期が何度か登場します。最初は軽い浮腫や皮膚の赤みだったことが多く、冷えや長時間の立位・歩行が誘因と考えられます。やがて皮膚が硬くなり、潤滑を欠いた状態になってきたとあります。
足の皮膚が割れやすくなり、小さな傷が感染源になりやすい状況が生まれました。王の身の回りでは包帯や軟膏での手当てが続けられましたが、傷が深まると膿が出始め、壊死へと進む一領域が形成されました。
発熱や悪寒の記録の推移
発熱や悪寒は繰り返し観察され、特に足の創部の状態が悪くなると同時に全身症状が増えました。短期間で体温が上がったり下がったりする「波状熱」のような記述もあり、局所感染が全身に波及していることを窺わせます。
発熱に伴って食欲低下や倦怠感が強まり、夜間の冷えや頻繁な寝汗も報告に出ています。これらは炎症反応や感染症による全身反応の表れです。
傷や潰瘍の発生と拡大の様子
最初の小さな割れや傷から潰瘍が発生し、徐々に面積が広がったことが史料に記されています。潰瘍は深くなると骨や深部組織にまで達することがあり、深部感染を招いた可能性があります。創部からの膿や悪臭、黒変といった表現は壊死の進行を示しています。
包帯の交換や軟膏の塗布が続けられましたが、逆に処置が感染拡大を助けてしまった場面も考えられます。傷周囲の腫れや熱感が増すと、局所の循環不良と組み合わさって患部は回復しにくくなっていきました。
食欲不振や体力低下の記録
記録によれば王は食欲の低下が続き、好きだった料理もあまり口にしなくなった時期がありました。体重や筋力の低下が進むと、免疫力も落ちて感染と戦えなくなります。夜の睡眠も浅く、慢性的な疲労が増していったとされています。
療養や栄養補給は行われましたが、胃腸の機能低下や処方された瀉下などの影響で栄養吸収が十分でなかった可能性があります。これが全身状態のさらなる悪化につながりました。
側近や宮廷医の観察記録
側近や宮廷医の書き残した手記には、王の顔色や表情、動作の変化が詳細に記されています。彼らは頻繁に状態報告を行い、来客を制限したり安静を命じたりしました。医師たちは毎日の創部の観察や体温の記録を行い、治療方針を調整したとあります。
側近の記述は感情的な部分も含みますが、医師の報告は比較的冷静で具体的な症状(脈拍、呼吸、創部の状態)を伝えています。これらの記録が、当時の病状推移をたどる重要な手がかりになっています。
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医療の視点で見る死への経緯

当時の病状を現代の医学的視点で整理すると、局所の壊疽が始まり、それが感染を介して全身に広がり、最終的に致命的な状態になった流れが想定されます。ここからは壊疽や敗血症、血流障害など医学用語も含めてわかりやすく説明します。
壊疽とはどのような状態か
壊疽は組織が循環不全や感染により死んでしまう状態で、乾性壊疽と湿性壊疽に分かれます。乾性は血流不足で組織が乾いて黒くなるタイプ、湿性は細菌感染が加わり腫れや膿、悪臭を伴うタイプです。ルイ14世の記録にある膿や悪臭は湿性壊疽を示唆します。
壊疽部は局所の治癒能力を失い、そこから菌が血流に入ると全身の炎症反応が始まります。その段階での治療が遅れると致命的になりやすいのが特徴です。
敗血症の兆候と致死性の説明
敗血症は感染が全身に広がって臓器機能が障害される状態です。高熱や低体温、呼吸数や脈拍の上昇、意識障害、尿量低下などが現れます。記録にある発熱の波や衰弱、意識の低下は敗血症を想起させます。
敗血症が進行すると血圧低下や多臓器不全に至り、当時の医療ではこれを逆転させる手段がほとんどありませんでした。従って感染が全身に広がった段階で予後は厳しかったと考えられます。
血流障害や動脈の影響の可能性
動脈硬化や末梢動脈疾患があると足への血流が不足し、組織は酸素や栄養を受け取れなくなります。その結果、軽い損傷でも治りにくくなり、壊疽を招きやすくなります。ルイ14世は高齢で長年の生活習慣や持病の影響があった可能性があり、血流障害が壊疽の発生と進行に寄与した可能性があります。
糖尿病や栄養状態が及ぼす影響
糖尿病があれば免疫機能が低下し、創傷感染が起こりやすく治癒が遅れます。また高血糖は細菌の増殖を助けることもあります。史料に糖尿病の明言はありませんが、食欲不振や慢性の体力低下、創傷治癒の悪さなどから代謝異常の可能性は排除できません。
栄養状態の悪化も免疫を低下させ、感染に対する抵抗力を弱めます。王の晩年の食欲低下は治癒力の低下につながったと考えられます。
現代治療での対応との違い
現代では壊疽や感染が疑われれば、迅速な抗生物質投与、創部のデブリードマン(壊死組織の除去)、循環改善のための外科的・薬物療法、集中治療での支持療法が行われます。血糖管理や栄養補給も並行して行われ、敗血症に対しては輸液や昇圧剤、呼吸管理が行われます。
これに対して当時は抗生物質や集中治療がなく、外科処置も消毒と無菌操作が不十分でした。したがって同じ症状でも治療結果は大きく異なったことでしょう。
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当時の医療環境と行われた治療

ルイ14世を治療したのは宮廷に仕える医師たちで、当時の医学理論に基づく処置が行われました。ここでは宮廷医の方法、使われた療法や薬、衛生環境の問題点について記します。
宮廷医の役割と使用された処置
宮廷医は王の健康管理と病気の治療を担い、日々の観察・報告が義務付けられていました。外科的処置としては創部の切開や膿の排出、包帯交換、外用薬の塗布が行われました。さらに全身療法として瀉血や下剤、浣腸が頻用され、体内の「悪液」を減らすことが狙いでした。
医師はまた薬草や鉱物を調合した薬を処方し、温罨法や湿布で局所を温めたり冷やしたりして対処しました。これらは当時の常識に基づく治療法でした。
血を抜く療法や浣腸の使用例
瀉血は多くの病態で行われ、過剰な体液や「偏った体液のバランス」を正すと信じられていました。浣腸や下剤も同様に体内の不純物を排出する手段として用いられました。これらは症状の一時的な緩和をもたらすこともありましたが、脱水や電解質異常を招き、体力をさらに消耗させる危険がありました。
特に感染や敗血症が進行している場合、瀉血は循環不全を悪化させる可能性がありますが、当時の医理では有効な選択肢でした。
薬草や外用薬の種類と効果の限界
当時使われた外用薬には鉱石を使ったもの、油や樹脂、薬草の煎じ汁を混ぜた軟膏などがありました。抗菌作用がある植物も利用されましたが、成分の濃度や適用法が一定でなく、深部まで届く効果は期待しにくいものでした。
痛みや炎症を和らげる効果はあったかもしれませんが、壊死組織や深部感染を根本から治すには限界がありました。結果として感染が持続・拡大する場合が多かったのです。
衛生状態と感染拡大の背景
当時は手指の消毒や器具の滅菌といった概念が確立しておらず、包帯や刃物の再使用が普通でした。これが創部への二次感染を促進する一因となりました。宮廷であっても医療環境は現代基準から見ると不十分で、感染管理が困難でした。
また、王の周囲に多くの人が出入りすることや、療養環境が完全な隔離を前提としていなかった点も感染リスクを高めていました。
治療が身体に与えた影響の考察
当時の処置の中には、症状を悪化させたり体力を奪ったりするものも含まれていました。瀉血や頻繁な浣腸は脱水や電解質異常を招く恐れがあり、傷の切開や包帯交換が感染源となることもありました。
結果として治療そのものが負担となりうる一方で、放置する選択肢もなく、医師たちは当時最善と思われる方法を選び続けたと見るのが妥当です。
ルイ14世の死因を振り返る
ルイ14世の最期は、脚の壊疽を中心に進行した感染と全身状態の悪化が重なって起きた出来事でした。年齢や体力低下、血流障害や代謝異常の可能性、そして当時の医療環境の制約が積み重なり、回復は難しい状況にありました。今日の医療があれば異なる経過を辿ったかもしれませんが、当時の医師たちは入手可能な手段で王の回復を目指して尽力しました。
この経過を振り返ることで、医療の進歩や感染管理の重要性を改めて理解できます。また、過去の記録を通して人々が病にどう向き合ってきたかを知ることは、歴史をより身近に感じる手助けになるでしょう。
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